幸せのおすそわけ 8



 野明。

 俺はお前だから、一緒になりたいと思ったんだ。






「お先に失礼しますっ!」

 終業と同時に遊馬が立ち上がった。

 本庁の装備開発課のメンバーがあっけに取られたように遊馬を見る。
 周囲の視線など気にならないのだろう。
 遊馬はバッグとコートを脇に抱え、開発室を飛び出した。

 遊馬と同じように帰宅する人達と一緒に、エレベーターに乗り込む。
 いつもと同じ速度でエレベーターは降下しているはずなのに、とても遅く感じる。
 遊馬は少し苛々しながら携帯を見た。

 このまま車を走らせれば、野明の終業時間には間に合う。

 エレベーターが1階に到着しドアが開いた瞬間、遊馬は人を押し退けるようにしてフロアへ飛び出した。
 
 早歩きで、正面玄関に向かう。
 ふと、視線を走らせると、そこには見慣れた後ろ姿。

「進士さん」

 遊馬と同じように正面玄関に向かって歩いていた進士に声をかけた。

「あ、お疲れ様です。 あの、遊馬さん、今日の呑み会……」

「大丈夫。 ちゃんと野明と二人で行くから」

 遊馬は、自信に満ちた顔できっぱりと言い切った。

「は、はい。 じゃあ居酒屋で……」

「うん」

 笑顔で手を振って、走り去っていく遊馬の背中を、進士は見送った。

 この前、遊馬と野明の間に何があったのかはわからないけれど。
 遊馬と野明にはやっぱり仲直りしてもらいたい。

 進士は遊馬の背中を見送りながら、素直にそう思った。





 遊馬は、駐車場の自分の車に飛び乗りエンジンをかけた。
 バックとコートを後部座席に放り投げ、助手席に積んでおいた紙袋から着替えを取り出す。
 まだ暖まらないVWの中で、遊馬は格闘しながらスーツを脱ぎ捨て、ジーンズに着替え始めた。
 さすがにスーツで呑み会に行くことは出来ない。
 終業時間なので、駐車場には帰宅しようとする人達もおり、VWのそばを通り過ぎる人もいた。 
 車内で着替えをしている遊馬を見て、訝しげに見る人ももちろんいたのだが、今の遊馬には人目を気にする余裕などこれっぽっちもなかった。

 やっとのことで着替えを終え、遊馬は一つ溜め息をついた。
 
 携帯で再び時間を確認する。

「よし」

 携帯をジーンズのポケットに押し込み、遊馬はVWのアクセルを踏み込んだ。



(待ってろよ、野明〜!)



 遊馬の暴走を止めることは、もう不可能だった。  





「お疲れ様です。 お先に失礼します」

「お疲れ様。 また来週ね」

 開発部のメンバー達と挨拶を交わし、野明は従業員出口へと向かった。
 
 歩きながら、携帯を見る。

 呑み会に出席する日は、この時間ならもうバスに乗車している。
 野明は小さく溜め息をついた。



 みんなに嘘をついてしまった。
 そう、まるでこの前の遊馬と同じ。

 また以前のように、呑み会に行くことがあるのだろうか。
 今のこの気持ちのままでは、二度と呑み会に出席など出来ないような気がする。

 でも、きっと今だけ。
 時間が経って、遊馬も自分も気持ちが落ち着いたなら、きっとまた……。

 そんなことを考えながら、野明は従業員出口前の警備室の警備員に軽く頭を下げた。
 出入り口のカードリーダーに社員カードを通す。
 電子音が鳴り、重々しい音を立ててドアが開いた。

 吹き込んできた冷気に、野明は肩を竦め、足を外へと踏み出した。
 そして、再び重々しい音が響いてドアが閉まった瞬間、野明がフリーズした。

「よお、久しぶりだな」

 遊馬が、いた。
 それも、仁王立ちで腕組みをして。

(な、な、何で!?)

 野明はつくづく自分の考えが甘かったと思った。
 遊馬が本庁に異動になる時、あんな状況になって、遊馬も少なからず気まずい思いをしたはずなのに。
 
 そんな気まずい思いをしたここに、遊馬が来るなんて思ってもいなかった。

 色々なことを瞬時に考えた野明は、やはり同時にあの日のことを思い出してしまった。
 見る見る間に顔に朱が上っていくのが自分でもわかる。

「……!!!」

 意味不明の言葉が口から飛び出しそうになるのをかろうじて耐え、野明は遊馬の前から逃走した。

「……え!?」

 野明の予想外の行動に、遊馬は一瞬あっけに取られたが、瞬時に我に返り野明の後を追って走った。 
 
「こら〜っ! 逃がさねぇぞ!」

「な、何で追ってくんの〜っ!?」

 何故追われているのかわからない。
 が、追いかけられて野明は更にスピードを上げて逃走する。

「お前が逃げるからだろうがっ!」

 スピードを上げて逃走する野明に合わせて、遊馬も更にスピードを上げて追いかける。

 すごい形相で遊馬から逃走する野明と、更にすごい形相で野明を追いかける遊馬。
 終業後、帰宅しようと工場敷地内にいた社員達が何事かと二人の様子を目で追っている。

 2人は敷地内を数百メートル走り続けた。
 しかし、バスケットボール経験者の野明の足がどんなに早くても、男でラグビーボール経験者の遊馬の足に敵うはずもなく、野明はとうとう遊馬に捕まってしまった。
 
「の……あ……」

 咳き込みながら、遊馬が野明を呼んだ。
 野明も肩で息をしている。
 体力勝負の現場を離れて早一年。
 確実に体力が落ちていた。

 遊馬の額にも、そして野明の額にもうっすらと汗が浮かんでいた。

「……離して」

 遊馬に手首を捕まれたまま、野明が呟くように言った。
 遊馬から顔を背けたまま。

「……呑み会に行く前に話があるんだ」

 野明の言葉を無視して、遊馬が話を始めようと口を開いた。

「あたしはないよっ!」

「だから俺があるんだちゅ〜のっ!」

「だからあたしはないってば!」

 野明の手首をつかんだままの遊馬。
 遊馬から顔をそむけたままの野明。

(こんなに野明に拒絶されるなんて……)

 遊馬は、自分のしでかしたことが、とんでもないことだったのだと改めて思った。

 野明の様子から言っても、おそらくそういう経験はなかったのだろう。
 酔っ払っていたとは言え、何てことをしてしまったのだろう。
 遊馬は自分で自分が腹立たしかった。  

(ここはやはり野明とキチンと話をして、これからのことを……) 

 2人の愁嘆場に、遠巻きに従業員が集まり始め見つめていたが、そんなことに構っている余裕は2人には全くなかった。

 

 『誰か助けて!』

 野明は心の中で叫んだ。
 恥かしくて、遊馬に会う勇気などなかった。
 だから、今日の呑み会は欠席すると進士に伝えたのに。
 何故、遊馬はわざわざここに来たのだろう。

 話なんて自分にはなかった。
 とにかくこの場から、遊馬から逃げ出したかった。

 なのに何故、遊馬は手を離してくれないのだろう。
 恥かしくて、でもどうしようもなくて。
 
 涙が出そう。



 そんな野明の様子を気に止める余裕などない遊馬が、再び口を開いた。

「この前のこと……」

 遠巻きに2人を見つめていた野次馬が、ごくん、と固唾を飲み込んだ。

 と、その瞬間、

「お前ら、こんなとこで何しとんの?」

 聞き覚えのある声が、2人の耳に飛び込んで来た。

「「へ?」」

 2人同時に、声のした方を見ると、見覚えのある顔があった。

「「隊長!?」」

 野次馬の中に後藤がいた。

 はっと我に返り、掴んでいた野明の手首から遊馬が手を離した。
 遊馬の手が離れた手首を、野明がゆっくりとした動作で下ろした。
 もう片方の手で、手首をさする。

「何でここにいるんですか?」

「機体のことでちょっと用があって、シゲさんと一緒に来てたんだが……」

「ああ、そうなんですか」

 相変わらずのすっとぼけた口調。

(今の隙に……)

 こっそりと逃げ出そうとした野明の襟首を、遊馬が手を伸ばして掴んだ。

「ひゃあっ!」

 野明が悲鳴を上げた。

「逃がさんぞ」

 遊馬の低い声に、襟首を掴まれたままの野明が小さくなる。

 2人の様子がおかしいことに、後藤はさっきから気が付いていたが、あえて何も言わずに、遊馬との会話を続けた。

 後藤にしても、やはりよくわかっているだ。
 この2人のことは、口を出すべきではないと。
 
「今日、呑み会だろ? 俺もついでに乗っけてってくんない?」

「あ、いいですよ」

「泉も行くんだろ?」

 後藤の問いに一瞬、野明が口ごもる。

「あ、え、え〜と……あの、あたしは今日はちょっと……」

「行くよな?」

 刺さるような遊馬の視線と、さっきより更に低く有無を言わせない口調。

「……行きます」

 もう逃げられない。

 野明はがっくりと肩を落とした。
 もうこうなったら、もう諦めるしかない。
 何より、遊馬がヘソを曲げたら手が付けられない。
 それだけは避けなければ。

「じゃあ、よろしく」

 後藤の言葉を合図に、遊馬が野明の襟首から手を離す。

「車、向こうです」

「ほいほい」

 後藤と遊馬の後ろを、野明がしぶしぶとついていく。

 

 遠ざかっていく3人の後ろ姿を、野次馬が見つめていた。 



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