故郷 3
「……遊馬?」
故郷のことを思い出して、どれくらいそうしていただろう。
遊馬は野明の声で現実に戻ってきた。
「……あの……ごめん……」
「え?」
「あたし……また余計なこと言っちゃったみたいで……」
野明が俯きながら小さな声で言った。
「……ごめんなさい……」
上目遣いで悲しそうな顔をして、遊馬の顔を見ている。
どうやら、ぼんやりと故郷に思いを馳せていた遊馬の顔が、怒っている様に見えたらしい。
「怒ってないよ」
遊馬はそんな野明を見て微笑んだ。
遊馬の笑顔を見て、野明はほっとした様に微笑んだ。
まだ特車二課にいた頃、一馬のことで野明と大喧嘩をしたことがある。
遊馬と一馬との確執を全くと言っていいほど知らなかった野明が遊馬を怒らせ、少しの間ではあるものの、口をきかないという、まるで子供の様なケンカをしたことを遊馬は思い出した。
あの頃の自分は本当に子供だったと遊馬は今更ながら思う。
野明が何も知らなかったとは言え、父親である一馬のことをあんな風に呼んだなら、普通の人ならば野明と同じ様に、遊馬の言葉使いを咎めるであろう。
でも、今ならばあの時と同じことを野明に言われても、怒らずに穏やかに聞けるかもしれないと遊馬は思った。
あのケンカ以来、野明は遊馬に実家や家族のことをあまり聞かなくなった。
またケンカになってしまうというより、遊馬の心の傷がいつか癒えたなら、きっと自分から話してくれるだろうと、野明は考えていた。
すると、野明の顔を静かに見つめていた遊馬がゆっくりと口を開いた。
「俺の実家の庭はさ……」
不意に遊馬がぽつりぽつりと自分のことを話し出した。
それと自分の幼い日のことを。
今まで誰にも話したことのなかった思い出を。
唐突に遊馬が自分の話をし始めたので、野明は少し驚いた顔をしたものの、「うん」と頷き、遊馬の話に耳を傾けた。
もう夜の帳が舞い降りて、街灯にうっすらと照らされている庭を見つめながら、遊馬は色々な話をした。
庭にある、文枝の好きだった桜の木のこと。
優しかった文枝と一騎のこと。
最後に抱きしめてくれた時のこと。
泣いていた一馬のこと。
遊馬がゆっくりと噛み締める様に話すのを、野明は何も言わず静かに聞いていた。
が、遊馬がふと野明の顔を見ると、野明の大きな瞳から音もなく涙が零れ落ち、頬を伝っていた。
「お、おい。 どうしたんだよ?」
驚いた遊馬が野明の肩に右手を掛けると、野明が途端に鼻をすすり上げ、声を上げて泣き始めた。
「だ……だって……遊馬のお父さんや……亡くなったお母さんとお兄さんの気持ちを考えたら……辛くって……」
あまりにも辛そうに泣く野明を見て、遊馬が小さな声で言った。
「……辛い……?」
こくんと野明は頷き、鼻を啜りながら話し始めた。
「……可愛い自分の子供を……置いて……逝かなきゃいけなかったお母さん……辛かったよね……」
遊馬が静かに見つめる中、野明は泣きながら話を続けた。
「……それに……お父さんだって……大好きな人が逝ってしまって……悲しかったよね……」
「……親父が? 悲しかった?」
こくんと野明が小さく頷く。
遊馬は自虐的な笑みを浮かべた。
「そんな訳ないだろう。 あの親父はおふくろが危篤だって知らされても帰ってこなかったんだぞ? 死に目にだって会わずに……」
野明が数回、横に首を振った。
「違うよ、遊馬。 お父さんは……怖かったんだよ……。 お母さんの死に目に会うのが……」
俯いていた野明が頬を伝う涙を拭いもせずに顔を上げ、遊馬をまっすぐに見つめた。
「だから遅く帰って来たんだと思う……そして1人になって……やっと泣けたんだよ……」
野明の言葉に、遊馬は一瞬呆然としてしまった。
怖かった?
文枝の死に目に会うのが?
そんなことは今まで考えもしなかった。
仏壇の前で声を押し殺して泣いていた一馬を見てから、遊馬の中に渦巻いていたのは深く暗い怒りだけだった。
亡くなってから隠れて泣くのなら、何故危篤の知らせを受けた時にすぐ帰って来なかったのか。
生きている間に、もっと文枝のそばにいてやらなかったのか。
「お母さんが……自分の大事な人が少しづつ弱っていくのを見たくなくて……会うのが怖くて……お父さん、家に帰って来なかったんだと思う……」
少しづつ短くなっていく蝋燭の様に、その時が近付いている文枝を見ながら、一馬は何を思っていたのだろう。
「あたしも……遊馬が……自分の大事な人がもう長くないって知ったら……怖くて……辛くて……遊馬に会えないかもしれない……」
少し落ち着いて、泣き止んでいた野明の瞳から再び涙が落ちた。
「だから……あたしは……お父さんの気持ちがわかる様な気がする……」
そのまま黙り込んでしまった野明を遊馬はゆっくりと抱きしめた。
おずおずと遊馬の背に腕を回した野明の耳元で、遊馬は言った。
「親父は……弱かったんだな……」
遊馬の言葉に、野明が小さく頷いた。
遊馬は思った。
一馬は弱かったのだ。
愛する人のそばに最後までいられる勇気が一馬にはなかったのだ。
あの時の一馬をことを、遊馬は心の中でずっと責め続けてきた。
でももしも、野明が文枝の様に先立ってしまうとしたら、遊馬も一馬の様に、野明のそばにはいられないかもしれない。
今まで何年も長い間、心の奥で深く暗く蠢いていた一馬への憎しみにも似た感情が、霧が晴れるように消え去って行くのを遊馬は感じた。
「それにね……お父さんが……遊馬を篠原の跡取りにしたいのは……そばにいて欲しいからだよ、きっと……」
思いがけない野明の言葉に、遊馬は驚愕した。
「そばに……?」
「だって、自分の愛する人と自分の間に生まれた可愛い子供だもの。 お母さんが亡くなって、お兄さんが亡くなって、残された家族は遊馬しかいないんだよ? 淋しいし、心配なんだよ。 遊馬のことが」
遊馬の肩に顔を埋めていた野明が、顔を上げて遊馬の顔を見た。
「お父さん、不器用なんだね。 それにきっと恥ずかしがり屋。 『淋しいから、心配だからそばにいてくれ』って素直に言えないんだよ」
野明が目を細めてくすくすと笑った。
『淋しいから、心配だからそばにいてくれ』
野明の口から発せられたその言葉が聞こえた瞬間、遊馬の脳裏にあの実家の庭の風景が鮮明に甦った。
まるで、古いモノクロフィルムの様に色のなかった庭が、鮮やかな色を湛えて遊馬の目の前に広がった。
春の薄青色の空に、淡い桃色の花びらを広げて咲いているあの桜の木。
その桜のそばでひっそりと、しかし力強く息づいている季節の花々。
一馬が誰にも触らせることのなかった桜の木。
きっと一馬にとって、あの桜は文枝の代わりだったのだ。
だから桜守を呼んで手入れをさせていたのだ。
誰よりも愛していた人の思い出の詰まった木。
怖くて、文枝に近付くことを避けていた一馬。
文枝の最期を看取ってやれなかったことを後悔しているからこそ、あの桜を大事にしていたのだろう。
口下手で、不器用な一馬。
何て似ている親子なのだろう。
変なところが似てしまったと遊馬が小さく笑った。
「遊馬?」
野明が怪訝そうな顔で遊馬を見上げた。
「すまん。 何でもない」
「……そう」
そのままきょとんと自分の顔を見上げている野明がとても可愛くて、遊馬は野明の額にそっと口びるを押し当てた。
「……!?」
顔を真っ赤にして固まり絶句する野明を見て遊馬が微笑んだ。
「ありがとな」
「え? 何が」
今まで心の奥底にずっとしまい込んでいた一馬への暗い思い。
野明の一言でこんなにも穏やかな感情に変わったことが、遊馬はただ嬉しかった。
遊馬の思いをこんなに理解してくれる人は野明以外にいないだろう。
これまでもこれからも。
外で車の止まる音がして、遊馬に抱きしめられていた野明が身体を遊馬から離した。
「あ、お父ちゃん達帰ってきたみたい」
気が付くと、もうすっかり日が落ちてしまった部屋の中は暗く、遊馬は身体に残っている野明の温もりを感じながら立ち上がり、居間の照明の紐を引いた。
「ただいま〜!」
勝手口が開く音と共に、野明の母親の明るい声がした。
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