故郷 2



 遊馬の実家の庭は、綺麗に手入れはされており、桜が引き立つ様に設計されていた。

 池や石畳の敷かれた散歩路。

 季節の花が植えられた花壇。

 しかし、いつの頃からか遊馬の目には、植物の気配を全く感じることの出来ない、冷たい模造品の庭としか見えていなかった。
 
 実家の庭は、家を建てた時に一馬が業者を入れ造らせたのだと、いつか古参の家政婦が教えてくれたことがあった。
 整えられた庭ではあったが、遊馬は好きではなかった。
 正確に言えば、興味を失ったのだった。
 
 今、遊馬の実家が建っている所は遊馬の父親、一馬と母親の文枝が結婚してまもなく、家を建てる土地を探していて偶然見つけたのだそうだ。
 手の付けられていない、雑草の生い茂ったその場所に、まるでそこを守るかの様に大きな一本の桜の木が根付いて、薄い色の花を咲かせていたという。
 桜が好きだった文枝に懇願され、一馬はその土地を購入した。
 そしてその桜を引き立てる様に庭を造った。
 
 物心付いた頃には文枝はほとんど寝たきりの生活を送っていた。
 そして、寝込んでいる母親に、遊馬は甘えることが出来ずにいた。

 『身体に障るから』と母親の部屋に近寄ることさえ許されなかった。
 
 だが、まだ幼い遊馬にそんなことがわかる訳もなく、一馬や文枝の代わりに遊馬の面倒を見てくれていた祖父の目を盗み、その日、遊馬はこっそりと廊下の奥の文枝の部屋に近づき、入口の襖の隙間から中を覗いていた。
 身体を起こし、庭の桜を見ていた文枝は遊馬の姿に気付き、微笑んで手をのばし遊馬を呼んだ。
 戸惑いながら近寄った遊馬の手をとり、膝にのせ遊馬を抱きしめた。
 遊馬は嬉しくて、文枝にしがみついた。
 文枝は優しく遊馬を頭を撫でてくれた。
 
 どれくらいそうしていただろう。
 文枝の胸に顔を埋めていた遊馬がふと顔を上げると、文枝は庭の桜を見つめていた。
 桜を見つめる文枝の顔は、ぬける様に白く儚げで、文枝がそのまま消えていなくなってしまう様な気がして遊馬は怖くなった。
 そんな遊馬の気配を感じとった文枝は遊馬の顔を見て、『大丈夫よ』と呟いた。

『お母さんね。あの桜の木が大好きなの』

 文枝の肩越しに見えた、空に溶け込む様に咲き誇る淡い色の桜の花は、幼い遊馬の目に焼き付き、忘れられない光景になった。
 
 遊馬が母親に抱きしめてもらえたのは、これが最後だった。

 夏の暑さに耐えられなかっただろう。
 秋風が吹き始めたころ、文枝は旅立った。
 葬儀が済み、親戚が帰路につき、数人の家政婦が後片付けに追われる中、心細くなった遊馬が一騎を探して家の中を歩き回っていると、ある部屋から小さな声が聞こえた様な気がして、遊馬はそっと襖を開け中を覗き込んだ。

 真新しい遺影の置かれた仏壇の前に一馬が座っていた。

 一馬は泣いていた。

 声を殺して、肩を震わせて。
 
 声を掛けることも出来ず、遊馬は後退りで部屋から離れた。
 パタパタと廊下を走りながら、遊馬は例えようもない怒りが身体の底から沸き上がってくるのを感じていた。

 一馬はほとんど家にいることはなかった。
 文枝が日に日に弱っているのを知っていながら。
 
 危篤になった時でさえ帰って来なかった。
 文枝が息を引き取り、死に化粧を施される頃、一馬はやっと帰ってきた。
 文枝は何も言わなかったが、一馬に会いたがっていたことを遊馬は知っていた。
 
 廊下を走って階段を上ると、自室にいた一騎がドアを開けて廊下に顔を出していた。
 足音に驚いたのだろう。
 遊馬はそのまま勢いよく一騎の腕に飛び込み、大声で泣いた。
 一騎は何も言わず、文枝が遊馬にしてくれた様に頭を撫でてくれた。
 母親に似たのか、口数の少ない人であったが、優しい兄だった。

 その晩、一騎は遊馬と一緒に寝てくれた。
 遊馬が寝入るまで、一騎は遊馬の知らない母親のことを色々と話してくれた。
 
 文枝の好物のことや、遊馬が生まれたときのこと。
 
 母親との思い出が全くと言っていいほどなかった遊馬は、まるで寝物語の様に一騎の話に聞き入った。

 そんな優しかった兄も、十数年後に母親の元へ旅立った。
 母親が亡くなり、そして兄が亡くなっても桜は変わることなく庭で毎年咲き乱れた。
 
 だが、母が逝き、兄が逝き、気が付いた時には、桜は色を失っていた。
 どんなに美しい花びら舞い散っていても、遊馬の目には、道に落ちている石と変わらなかった。
 
 文枝が、微笑みながら抱きしめてくれた時に、肩越しに見えたあの桜ではもうなかった。

 文枝が亡くなった次の年から、一馬はあの桜の木を誰にも触らせなくなった。
 庭を造った庭師にさえ触ることを許さなかった。
 そんなある日、一馬はある男を実家に連れて来た。
 その年輩の男は『桜守』と呼ばれる桜専門の庭師で、言わば樹医であった。
 毎年桜の花が咲く頃、その男は実家の庭を訪れ、桜の木を丁寧に調べ、処置をしていた。
 その甲斐あってか、桜は毎年見事な花を付けた。
 
 しかし、遊馬が文枝の肩越しに見た、文枝が好きだと言った桜は、もう何処にもなかった。

 遊馬の目に移るのは、庭の形をした冷たい模造品であった。
 桜の花びらが春風に舞っても、季節の花々が咲き乱れても、遊馬には何の感情も湧きあがらなかった。

 そして、遊馬は実家の庭への興味を失った。



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