幸せになろう
「それじゃあな」
「うん。 また来週ね」
手を振って、改札を抜けて振り返ると、改札の向こうで野明が手を振っている。
目が合うと、野明は満面の笑みで、さっきより激しく手を振った。
俺も笑いながら手を振り、そして背中を伸ばし、前を向いてホームへとゆっくりと足を進めた。
あの戦争でのお咎めもなく、俺たちは変わらず篠原に出向している。
変わったのは俺たちの関係と、時間。
付き合い始めたのをきっかけに、野明は篠原の寮を退寮して、1人暮らしを始めた。
本当は一緒に住みたかったのだが、あの戦争直後から、開発部では複数のプロジェクトの同時進行を始めた。
テストパイロットの野明は、泊り込みなんてことはないのだが、データ解析などが主な仕事である俺は、必然的に平日に家に帰ることが不可能な状態になってしまった。
俺がいない家で1人で過ごすことを野明は嫌がり、仕事が一段落したら、一緒に住む家を探すことになっていた。
職場が一緒なのだから、毎日職場で会えるが、二人でのんびりと過ごす時間は極めて少ない。
だから、俺は週末は野明の元に帰る。
本当のところ、俺の今の状態では、平日はもちろん、土日だって家に帰れる状況じゃない。
だが、土曜日の夜だけは、何が何でも家に帰ることにしている。
野明の部屋に。
もちろん、篠原の寮に俺の部屋はある。
でも、今俺が帰るところは、野明だから。
日曜日の夜、終電に乗って俺は八王子工場に行く。
改札で手を振って、野明と別れて、電車に乗り込む。
別れ際の野明の笑顔を思い出すたび、すぐに野明会いたくなる。
『寂しくない』と言えば嘘になる。
だけど、大丈夫。
離れていても、2人で歩いているから。
俺と野明が付き合いだしたのは1年前。
ちょうどあの戦争が終わった直後だった。
戦争のあと、俺の中の何かが音を立てて切り替わった。
いつも一緒にいるのが当たり前になっていたけど、人間はいつ天命が尽きるかわからない。
ありがたいことに、野明も俺も怪我なんかほとんどなく帰ってこられたけど。
もし、明日俺の寿命が尽きるとしたら。
もし、明日野明の寿命が尽きるとしたら。
今は同じ所に出向していて一緒にいられる。
でも、人間はいつまでも同じ所にはいられない。
次の異動では、俺と野明は確実に別の道を歩むことになるだろう。
そう考えたら、野明と離れるのが不安でたまらなくなって。
そして、あの戦争の数日後、襲撃され廃屋同然になったあの埋立地の駐車場で、俺は野明に告白した。
「俺と付き合ってくれ。 出来れば一生」
顔から火を噴くかと思えるほどストレートな俺の告白を、野明も顔から火を噴くかと思えるほど真っ赤な顔で、真正面から受け止めてくれた。
よくよく見ると、大きな目にはうっすらと涙を溜めて。
日も暮れかかった夕闇の中、まだ寒さが残る空気は、俺の火照る顔に心地よかった。
少しうつむいたまま、黙ったままの野明を見つめたまま、俺は言葉を続けた。
「お前を泣かせるようなことはなるべくしない。 浮気はもちろんしない。 酒を呑んで醜態を晒すことも、親父と喧嘩して、お前に八つ当たりをすることもなるべくしない。 だから……」
俺は一つ深呼吸をして、最後の言葉を口にした。
「……だから、俺のそばに一生いてくれ。 きっと幸せにする」
ありきたりの言葉しか出てこない。
もっと、もっと気の利いたセリフで、俺のありったけの気持ちを伝えたいのに。
ボキャブラリーの貧困さに眩暈を感じながら、野明の顔を見つめ続けた。
すると、ふっと野明が顔を上げ、じっと俺の顔を見つめた。
気が付くと、野明の顔から、薄闇の中でもはっきり見えた顔の赤味が消えている。
そして、まるで怒ったような表情。
拒絶、されたと思った。
一瞬にして、俺の顔から血の気が引いていくのがわかった。
やっぱり、俺じゃあ駄目なのか。
「ごめん」
思わずこぼれた言葉は謝罪の言葉だった。
「今、俺が言ったことは忘れて……」
『忘れろ』なんて、虫のいい話だと思ったけど、こうでも言って自分の気持ちを納得させないと、もう二度と野明に会えないと思った。
すると野明が、思いがけない言葉を口にした。
「あたしだけ、幸せになるの?」
「え?」
「あたしだけ幸せになって、遊馬は?」
「え?」
野明の言葉の意味がわからなくて、俺は同じ言葉を繰り返した。
「遊馬は、幸せにならないの?」
幸せ?
俺が?
「あたしだけ幸せになるなんてイヤ」
まっすぐ俺の目を見つめたまま、野明はきっぱりと言った。
野明が、俺のそばにいて笑ってくれることが、幸せだと俺は思ってた。
篠原に出向になって、好奇な視線や、聞こえよがしの嫌味。
野明の笑顔のおかげで、乗り越えて来られた。
今までそうだったように、これからもそうだと思ってた。
でも、野明はイヤなのか?
「あたしと一緒に、遊馬も幸せになってくれなきゃイヤ」
幸せ?
野明と一緒に?
「だから、訂正して。 『幸せにする』じゃなくて『幸せになろう』って」
幸せになる?
俺が?
野明と一緒に?
「……遊馬?」
野明が俺の顔を覗き込んだ瞬間、水がすごい勢いで野明の頬に落ちた。
それは水ではなく、俺の目からこぼれ落ちた涙だった。
『幸せ』って言葉が、こんなに大きくて力強い言葉だなんて、知らなかった。
『幸せになろう』
この言葉を聞くまで、俺はこの世に生まれてきてよかったと思ったことなんてなかった。
なのに、野明が口にしただけで『野明と一緒に俺は幸せになれる』って思えた。
生まれてきて、嬉しい。
そう思えた瞬間、涙が止まらなくなってしまった。
涙も鼻水も、きっと一緒に流れてるだろう俺の顔を見ても、野明は笑わなかった。
それどころか、野明の目には再び涙が浮かんでいる。
すると、野明の腕がするりと伸びて、俺を抱きしめた。
とたんに、さっきよりも涙が溢れ出して、また止まらなくなった。
野明も泣いているのだろう。
耳元で、鼻をすする音が聞こえた。
そっと野明を抱きしめると、とうとう野明も本気で泣き出して、2人で抱き合って泣いた。
一緒に泣いてくれる野明が、とても愛しい。
涙が止まらないまま顔を上げると、野明も顔を上げた。
「…あすま……」
「……野明……一緒に『幸せになろう』」
涙に濡れた顔で、野明は綺麗に笑った。
野明と一緒なら、胸を張って出来ることがたくさんある。
夢が夢じゃなくなって。
信じられることもたくさんある。
だから、少しずつ、少しずつ。
『幸せになろう』