双頭の蛇 1
「ふう。 やっと片付いたね」
野明が泥で真っ黒になった雑巾を片手に持って笑った。
「やれやれ…」
遊馬が腰を伸ばしながら溜め息をつく。
手にはモップ。
内海達の襲撃を受けた特車二課棟の掃除がようやく終了し、第二小隊のオフィスも再び元の状態に落ち着きつつあった。
「お茶でも入れようか」
「おう、サンキュ」
掃除道具を片付け始めた野明の顔を、遊馬がちらりと見る。
右頬には大きなばんそうこう。
グリフォンとの戦いで付いた傷。
遊馬の腕がすっと伸びて、野明の右頬に大きな手が触れた。
遊馬の手ですっぽりと覆われてしまう野明の頬。
「……傷、大丈夫か?」
心配そうに顔を覗き込む遊馬に、野明は微笑んだ。
「うん、大丈夫。 もう痛くないし」
「明日病院行けよ」
自分の頬を優しく撫でる遊馬の手に、野明は自分の手を重ねた。
「……うん」
野明の手が遊馬の手から離れると同時に、遊馬の手も野明の頬から離れた。
「遊馬。 みんな呼んで来てよ。 あたし、お茶入れてくる」
掃除道具を手にした野明がオフィスを出て行く。
野明の後ろ姿を見つめながら、遊馬はぼそりと一言呟いた。
「負け戦か……」
グリフォンとの戦いを終え、シャワーから上がった野明が言った言葉。
『後藤隊長が前に言ってたんだ……。 警察の仕事はそのほとんどが負け戦だって』
その代償である野明の頬の傷。
内海に単独で会いに行ったまま、戻って来ない熊耳。
ボロボロになったアルフォンス。
「やっぱり完勝じゃねぇよな……」
『負け戦』の意味が、遊馬にもわかった様な気がした。
「みんな揃ってるか〜」
みんながオフィスに戻ったのを見計らったかの様に、後藤が入ってきた。
手にはメモ用紙が握られていた。
「ん? 泉はどうした?」
「今、お茶を入れに言ってます」
「ん、そうか」
遊馬の言葉に後藤がポリポリと頭を掻いた。
その時、お茶の入った湯呑みを盆にのせて、野明がオフィスに戻ってきた。
「あ、隊長。 今お茶を持って行こうと……」
野明の言葉に後藤が振り返った。
「ん。 まあ、お茶飲みながらみんな聞いてちょうだい」
野明の手元の盆から、後藤が自分の湯呑みを取りすすった。
「今、捜査課の松井刑事から連絡が入った」
盆をデスクに置こうとしていた野明の手が途中で止まった。
「熊耳さん……無事だったんですか!?」
「熊耳は晴海の客船ターミナルで警視庁の刑事に保護された。 怪我もしてないそうだ」
野明の問いに淡々と答える後藤に、遊馬は何か違和感を感じていた。
いつもと変わらない軽い口調で話す後藤。
しかし何かを言いあぐねている様な表情をしている。
遊馬が意を決した様に後藤に切り出した。
「隊長。 内海は……リチャード王は逮捕されたんですか?」
ほんの少しだけ後藤の眉間に皺が寄った。
よく顔を見ていなければ分からない程度に。
「内海……リチャード王は警察病院に搬送された」
「警察病院に搬送……?」
進士が驚愕の顔で後藤を見た。
「内海……リチャード王は警察病院で先程死亡が確認された」
刹那、オフィスに響き渡る音。
みんな反射的に音のした方を見た。
野明の足元に割れた湯呑みの欠片が散乱していた。
「泉さん!」
ひろみが急いで野明に駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 火傷しませんでしたか!?」
ひろみの言葉も野明の耳には届いていなかった。
ただ呆然と後藤の顔を見つめていた。
「内海さ……リチャード王が死亡って……」
後藤は一瞬野明の顔を見て、再びメモ用紙に視線を戻した。
「客船ターミナルで刺されたそうだ。 内海を刺した犯人は内海の一味と思われる男に頭部を拳銃で撃たれて即死」
「まさか……」
野明が消え入りそうな小さな声を喉から絞りだした。
「まさか……熊耳さんの目の前で……」
「……そのまさかだ」
後藤の言葉に野明が口を手で押さえた。
後藤は表情一つ変えずにメモ用紙の内容を説明していた。
少なくとも遊馬以外の隊員にはそう見えていた。
「……倒れた内海のそばに座り込んでいたそうだ。 内海に付き添って警察病院に行ったと……松井刑事からの連絡内容は以上……」
「野明っ!!」
後藤の話が終わったと同時に遊馬が叫んだ。
ゆっくりと崩れ落ちていく野明の身体。
遊馬が野明の腕を引いて、力の抜けた野明の身体を抱きかかえた。
遊馬の耳元で乾いた音がした。
その音は野明の喉から発せられていた。
倒れた時に手が離れた野明の口元から、喘息の様な苦し気な呼吸音。
「野明!? おい!!」
途端に野明の瞳から大粒の涙が落ちた。
不規則に上下する野明の肩。
「遊馬さん!! 過呼吸です!!」
進士が叫んだ。
「ビニール袋を!!」
遊馬の声にひろみが自分のデスクの引き出しからビニール袋を取り出した。
「野明。 落ち着け」
ひろみがたたんであったビニール袋を広げて遊馬に手渡す。
「ゆっくり深呼吸して」
遊馬が野明の背中を擦りながら、野明の口元にビニール袋をあてる。
野明が咳き込みながらビニール袋の空気を吸い込んだ。
「そう、ゆっくり大きく吸って……」
少しずつ少しずつ野明の呼吸が穏やかになっていく。
野明の呼吸がほぼ正常に戻ったのを確認すると、遊馬は野明の口元からビニール袋を放した。
遊馬が野明の身体を縦に抱きかかえた。
「隊長。 野明を宿直室で休ませてきます」
進士がオフィスのドアを開けた。
「僕、布団敷いてきます」
進士がオフィスを早足で出た。
その後を追って野明を抱きかかえた遊馬がオフィスを出て行く。
野明は涙で濡れた顔を、遊馬の肩にのせたままぐったりとしている。
遊馬達がオフィスを後にしてすぐ、 ひろみも掃除道具を取りにオフィスを出た。
太田が何も言わずに割れた湯呑みの欠片を拾いだした。
後藤はそんな隊員達の動きを静かに見つめていた。
メモ用紙を握り締めて。