十六夜の月



 シャワーを浴びて、まだ濡れたままの髪の水気をバスタオルで拭いながら、冷蔵庫のドアを開け、缶ビールを取り出す。
 エアコンで適度に冷えた心地よい空気を感じながら、ソファにどっかりと腰を下ろす。

 缶ビールを開けて、飲もうと缶を傾けた時、目に飛び込んだのは少し欠けた月だった。
 雲の切れ間から青白い光を放ちながら、静かに地上を見下ろして。

 あの日。
 最後に彼女に会った日は満月だった。



 彼女に会えなくなって、もうどれくらいになるのだろう。



 彼女が異動になると、教えてくれたのは上司だった。
 そして、いつも彼女の隣にいた、あいつも一緒に異動だと、彼は言った。
 
 その時、彼女に気持ちを伝えようと、俺は初めて思った。


 
 非番の日、俺は彼女のいる埋立地を目指して、車を走らせた。
 
 彼女が仕事を終えて帰宅する頃に到着するように時間を見計らって。

 埋立地の敷地に車で滑り込んだ時、見えたのはまさしく彼女の姿。
 
 ゆっくりと車を止め、ドアを開けると、彼女は大きな瞳を見開き、そして微笑んだ。

「こんばんは。 隊長ならまだ隊長室に……」

「今日は後藤さんじゃなくて君に話があって来たんだ」

「え……? あたしに、ですか?」

 思いも寄らなかったのだろう。
 彼女は、大きな瞳を更に見開いて言った。

「あ、じゃあ立ち話もなんなので、中に入って……」

「いや、ここでいいよ」

「え? ここで、って……」

 困惑している彼女の顔を見ながら、俺は自分の冷静な頭に驚いていた。
 彼女を目の前にしたら、緊張してしまって、キチンと彼女の目を見て話をするなんて出来ないと思っていた。

 
 なのに、俺はいつも通り、彼女と普通に話をしている。
 

 本当のところ、俺はとっくに気付いていたんだ。
 彼女とあいつの間に割って入ることなんて出来ないということを。

 なのに、ずっと気付かないふりをしていた。

 それでも、俺は伝えようと思っていた。
 今、この瞬間までは。



 彼女が一瞬、二課棟の方へ視線を走らせた。

 あいつ、がいるんだろう。



 でも、俺は気にせずに、彼女を見つめたまま、口を開いた。

「……聞いたよ。 異動になるんだってね」

「……はい。 10月に篠原の八王子工場の開発室に異動になります」

 一呼吸置いて、彼女はクスリと笑った。

「あいかわらず情報が早いですね」

「そりゃもう。 おたくの隊長とツーカーの仲だからね、俺の上司は」

「ツーカーって……」

 向かい合ってくすくすと2人で笑う。
 こんな何気ないことも、もう出来なくなる。   

「異動になったら、こんな風に会って話も出来なるね」

「そんな、今生の別れみたいなこと、言わないで下さいよ」

「……今生の別れか……」

 ふと、視線を上げると、彼女の後ろの空に、満月が浮かんでいた。
 今まで見たことのある満月の中でも、とびきり大きく、丸く、綺麗な月だった。

 視線を戻すと、彼女が俺の顔を見上げて微笑んでいた。

「……篠原に行っても元気で頑張って。 影ながら応援してるよ」

 彼女が一瞬、きょとんとして、そして目を細めた。

「……わざわざ、そんなことを言いに来てくれたんですか?」

「そんなことなんて失礼だな」

「え、あ、ごめんなさい! そうですよね、わざわざ来てくれたのに失礼ですよね! 本当なら、こちらから挨拶に行くべきなのに……」

「え、いや、いいんだよ。 僕が勝手に言いに来たんだから」

「そんな、わざわざ来てくれて嬉しいです!」

 俺の言葉に慌てて、そして微笑む彼女は、やはり可愛らしく、場所なんて考えずに思わず抱きしめたくなってしまう。
 抱きしめて、思いを告げてしまおうか。



 そう思ったのに、出来なかった。

 
 
 俺はそこで思い留まってしまった。

 ここでもし思いを告げたとしたら、彼女からこの笑顔が消えてしまうかもしれない。
 俺は、彼女のこの笑顔が好きだったから。

 この笑顔を見ながら別れるのがいいのかもしれない。
 
 夜空で、火夏星のように瞬いている感情を隠して、俺はゆっくりと右手を差し出した。

「……お疲れ様でした泉さん。 身体に気を付けて」

 彼女の右手が静かに、そして力強く僕の右手を握り返した。

「…ありがとうございます。 風杜さんもお気を付けて」
 
 
 
 不思議と悲しくはなかった。
 満月が静かに光を放つ夜空のように、俺の心は穏やかだった。





 ひとり、部屋で月を見上げながら思う。
 愛しい人は、今宵も微笑んでいるのだろうか。

 心の中の火夏星は、今でも紅く瞬いて。



 会えなくなってからも。


 
 君を思ってる。