lip cream
「いてっ!」
遊馬の漏らした言葉に野明が駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「口びるが切れちまった」
もうすぐ春とはいえ、吹く風はまだ冷たく乾燥している。
出動で長時間外気に晒されたせいだろう。
遊馬の口びるは乾燥してしまっていた。
「大丈夫? ちょっと見せて」
野明が遊馬の口元を下から見上げた。
「あ、乾燥して切れちゃったんだね……。 ちょっと待って」
もそもそと野明が制服の胸ポケットから何かを取り出した。
「動かないでね」
野明が遊馬の顎に手をかけた。
「な、何だよ」
「ん? リップクリームだよ」
「リップクリームぅ? いいよ。 こんなの舐めときゃ治るよ」
「駄目。 舐めたら乾燥がひどくなるよ。 じっとして」
野明が背伸びをした。
遊馬の口びるにリップクリームがたっぷりと塗られていく。
遊馬は野明にされるがままだった。
「はい、終わり」
リップクリームなど塗った事のない遊馬が、ヌルッとした口びるの感触に顔をしかめた。
「気持ち悪い」
野明がそんな遊馬の顔を見て笑った。
「すぐに慣れるよ。 また乾燥して切れるよりいいでしょ?」
「ん〜…」
そんな微笑ましい(?)光景を、ミニパトの運転席から眺めていた後藤がぼそりと呟いた。
「若いっていいねぇ…」
出動から戻り、第二小隊の隊員達は、オフィスで報告書の作成をしていた。
ストーブの上に置かれたやかんから、シュンシュンと音を立て湯気が上がっている。
これだけ盛大に湯気が上がれば、隊員室の湿度も高そうなものだが
何と言っても、元は古い廃工場。
安普請な造りから来る乾燥にはやかんから上がる湯気も敵わなかった。
ふと、報告書の記入をしていた野明の手が止まった。
そして制服の胸ポケットに手が差し入れられた。
リップクリームを慣れた手付きで、自分の口びるに塗っていく。
遊馬が野明の手元をちらりと横目で見た。
「野明」
遊馬が手を出した。
「ん? ……はい」
差し出された遊馬の手に、野明がリップクリームを手渡した。
リップクリームなど嫌がっていた遊馬だったが、やはり口びるが切れるのはいいものではないと思ったらしい。
野明のリップクリームを自分の口びるに塗っていく。
「サンキュ」
塗り終えて野明に手渡す。
「ん」
野明は受け取ったリップクリームを、再び制服の胸ポケットにしまい込んだ。
そして何事もなかったかの様にまた報告書の作成に戻る二人。
そんな二人の様子を見ていた太田の口があんぐりと開いていた。
普段の太田なら「貴様ら職場を云々……」ととっくに咆哮していただろう。
が、太田はそれが出来ずにいた。
遊馬と野明の『熟年夫婦』……もとい『ツーと言えばカー』の素晴らしいコンビネーションに、さすがの太田もあっけに取られてしまっていたのだ。
『操縦者と指揮担当は一心同体』とはよく言ったものである。
しばらく口を開けっ放しにしていた太田が、パクンと口を閉めた。
やっと我に返ったらしい。
「お……!」
口を大きく開いて肺活量一杯に空気を吸い込んだ瞬間、パソコンでデータ処理をしていた隣のデスクの熊耳が顔も上げずに言い放った。
「太田君。 昨日の報告書の提出がまだなんだけど」
一瞬、太田が固まった。
「た……ただいま作成中でありますっ!」
「そう。 今日中に提出お願いね」
「り、了解でありますっ!」
熊耳と太田のやり取りにも耳を傾ける事なく、遊馬と野明の二人は黙々とペンを走らせている。
そんな二人を、ちらりと上目遣いで見た熊耳が顔をほころばせた。
まだ自分の気持ちに気が付かない二人。
お互いの気持ちに気が付いた時
きっと劇的な変化を遂げるのだろう。
距離も。
そして関係も。
いつになるかわからないその時を
今はただ見守っていよう。
そして熊耳はみんなにわからない様に小さな声で呟いた。
「若いっていいわねぇ……」